「わたしを生きる」という契約 -All of Me: autobiography-

第4章:塩梅がわからない

専門学校ではボーカルを専攻したかったけれど、
進んだのは作編曲のコースだった。
確かボーカルはダメだと親に言われた気がする。

「好きなようにやれ」と言ってたのに
ダメって言うじゃん!と絶望した気がする。
まあ、気持ちはわかるのだけれど。

二年の在学中、わたしはほとんど曲を作れなかった。

いざ曲を作ろうとして、
自分が口ずさむメロディーは
誰かの二番煎じどころか
煎じまくった後の出がらしでしかないことに絶望したのだ。
一オクターブ、十二音の限界を感じてしまった。

これはあくまでわたしの主観であって事実ではない。
そもそも十二音ある上にも下にも
音が続いていることは、
鍵盤や譜面を見ればわかる。
リズムやら構成やら、
そういう編曲的なことを言い出したらキリがない。

けれど、ユニークであることへの想いが
強すぎるわたしには、
耐えられなかったのだ。

バッハやベートーヴェン、
モーツァルト、
ショパン。

小さい頃からピアノを習っていた自分には、
数百年幅を利かせてきたやつらの存在は大きすぎた。

あと、わたしは曲を作る時に
ちょうどよい塩梅が見えなかった。
どんな音色を重ねれば良いのか。
また、どれだけ重ねれば良いのか。

そして高校時代、
休日しかバイトをさせてもらえなかった反動で、
在学中はめちゃくちゃバイトしていた。
それもあって、専門の二年間で学んだことは
ほとんど身につかなかった。

今これを書きながら思うのは、
それなら大学に進学してても良かったのかもしれないねってこと。
ただ、なんとなくで進学したとして、
その内容がどれだけ身についたかはわからないし、
専門学校で出会った人たちに代わる人には
大学では出会えていなさそうだから、
たぶん、これで良かったのだろう。

それに「自分で決めたという納得感」。
これが、わたしには今も昔も必要不可欠なのだ。

なんとなくで大学に行くのが嫌だからと
自分で専門に行くことを選んだ。
その過程と結果があるから問題ない。

専門でクラスメイトに言われた
「最高のリスナーでいればいい」
という言葉には、ものすごく救われてたし、
今も救われている。

「クリーニング屋の日々」

高校生の夏休みくらいから
クリーニング屋でアルバイトを始めた。
在籍は四年間。
土日はワイシャツとスーツを出しに来るお客さんで
めちゃくちゃ忙しい。

そして、めちゃくちゃ忙しいと
ハイになるということを知る。
暖かくなった頃に出される大量のコート。
血が騒いだ。

家族経営のクリーニング屋で、
高校時代は家から近い支店、
専門に入ってからは二駅隣にある
工場併設の本店で働いた。

一ヶ月違いで生まれた(一緒にコスプレした)
幼なじみの縁をゴリ押しして
入れてもらったお店だったけれど、
特に本店は幼なじみ含めクセが強い人が多かった。

高校時代には、シフトの関係で会ったことのない
パートのおばさまと連絡ノートで
やり合ったりもした。
年上だからって無条件に敬わねえぜスピリットは
しっかり発揮されていた。

実際会ってみたら素敵なおばさまで、
顔を合わせないとわからないことって
たくさんあるな、と反省した。

油の匂いが染み付いている調理場の白衣。
丁寧にアイロンを掛けて仕上げられていくワイシャツ。
思わず撫で回したくなるほど肌触りの良いカシミヤのコート。

ピンクを着ている男性はだいたいセンスが良い。
ストライプの三つ揃えスーツなんて最高。

ドライクリーニングの溶剤の匂いも含めて、
感覚をものすごく使って働いていた。

中古車販売会社のコールセンター

専門の二年の夏から一年間は、
某中古車販売会社のコールセンターでバイトをした。

そう、きれいなオフィスってやつで働いてみたかったのだ。

コールセンターも変人が多い……!
そして当時口にしたままの言い回しで申し訳ないが
「仕事ができない大人」「使えない大人」を
初めて目の当たりにし、
雷に打たれたような衝撃を受けた。

大人だからといって、
社会人経験があるからといって
誰しも仕事ができるわけではない、
そんな発見があった。

働く理由は、単純にお金を得るだけのものではないことも知った。

お金があるのに働いている人、
日中の仕事を終えて夜だけシフトに入るダブルワークの人。

動いていないと、
働いていないと調子が悪くなる、
なんて人もいるんだなとわかった。


終わった後にオフィス近くのお店でみんなでお酒を飲むという経験も初めてした。

チームのみんなでわいわいとお酒を飲むのは楽しかったな。
甘いお酒があることを、
二十歳になってお酒を飲むようになって初めて知った。
ジュースみたいにかぱかぱ飲んだ。

一次会を終えて帰ろうとする人を
強引に引き止める人がいて、
それがものすごく嫌だった。

人それぞれ都合があるのに、
それを無視して二軒目に連れて行くのを見て、
いつも内心憤っていた。

それと同じで、
「やっぱり今はやめておく」と
予約のキャンセルをしたいという人に対して、
別の日程を提案したりする
“切り返し”が苦痛だった。

お客様の意思をまるでないもののように扱うことが辛かった。
やめるって言ってるんだから
「ハイわかりました、またの機会にお願いします」
で良いじゃないか。

そもそも、まずはお気軽に今の価格から、
という広告を見て気軽に問い合わせてきた人に対して、
言葉巧みに出張査定の予約を取り付け、
買い取る気満々のスタッフを送り込むやり方を
受け入れられなかったのだ。

違和感はどんどん大きくなって、
インターネットの掲示板での
会社の評判を見てからは、
嫌悪感がどんどん大きくなって、
一緒に働く人たちは面白い人たちばかりだったけれど
辞めることにした。

辞める直前、
一度キャンセルをした人に対して
再度出張査定を提案する電話を
ひたすらかけ続ける業務をしていた時は
完全に心が死んでいた。


ここを辞めた後は求人情報を見ながら、日払いのバイトにも登録した。

家から自転車で行ける大きな倉庫には
本当にお世話になった。
小学校入学からの友達のお母さんが
パートで働いていたその倉庫では、
某衣料品店の出荷作業をたくさんやった。
いつも店舗に何着も在庫を置いているわけではないと初めて知った。
知らないことってたくさんある。

果たして屈辱とは

三ヶ月ほど経って、
家から近い不動産屋でホームページ担当者の
アルバイト求人があって応募したところ、
面接で支店の営業事務として
正社員で働くのはどうかと
提案をもらって、すぐに了承した。

正社員になることが、
その時の自分に最適の証明方法であり、
親孝行でもあったのだ。

お店の他の社員さんたちは
倍近く年上の人たちばかりだった。

昔ながらの会社で、
出勤したらみんなでお店の掃除をした後に、
コーヒーを入れるのがわたしの仕事だった。

それぞれのマグカップ、
そしてミルクと砂糖の量。

「おお、これが噂に聞いていた新人がやるやつ……」
と半ば感動したのを覚えている。

また、B型の人が多かった。
一匹狼の集まりのようで、
みんな自分がやりたいようにやる。
ちなみに自分もB型ではある。

A型の社員さんが
「これだからB型は」と言っていたけれど、
いやいや、あなたもなかなか変わっていらっしゃいますが!?と思っていた。

女性は賃貸、男性は売買の担当で、
女性は営業事務も兼ねていた。

若葉マークのわたしは
社用車で二回擦った。
そのうち一回は雨の中カーブで
膨らみすぎてしまい、
対向車の側面を思いっきり削ってしまった。
部長と菓子折りを持って
お相手の家にお詫びに行った。

こう振り返ると、
社会人なりたてほやほやのうちに
やらかすことはやっている気がする。
若葉マークのうちにやらかしたお陰で、
それから事故は起こしていない
(ちなみに家の車も若葉の間に一度擦った)


この不動産屋は一年と少しで退職した。

きっかけは入社して半年くらい経ってからだと思う。
宅建の問題集を自席で開いていたら
もう一人の女性社員であるお局様に注意されたのだ。

暇な時にはネットサーフィンしたり
携帯をいじったりするのに、勉強はダメ?

自分が宅建を持っていないから、
年下の新人が宅建を取るのが
面白くないのだとしか思えなかった。

そこから、自分が小間使いをやらされることに
嫌悪感と抵抗感を抱くようになり、
会社に行くのが憂鬱になった。

また、部長から「太ったな」と言われて
バックヤードで声を上げて大泣きした。

通勤のために電車を待っている時、
交差点で信号を待っている時。
飛び込むことが頭をよぎるようになった。

賃貸の物件を案内しても、
どこか気になるところがあると、
もうその物件は勧められない。
自分が心から良いと思えないものを良いとは言えない。

猛プッシュができないわたしは、
一年ちょっとの在籍期間の中で、
賃貸の新規契約が退職間際の一件しか取れなかった。

出勤できなくなり、会社を辞めた。

年末に近い退職だったので、
忘年会にわたしも呼ばれて、
おまけの送別会をしてもらった。

本店にいる取締役のおじいちゃんに、
「わかってる?屈辱だよ」と言われた。

それが、誰にとっての屈辱なのかは、今もわからない。
ただ、その時のわたしはこう受け取った。
「こんなことで辞めるなんて、使えないやつだ」

帰り道も、帰ってからも、わんわん泣いた。

そう、自分で人生の幕引きをするのはやめると
決めたからといって、
それと終わらせたいと思うことは別なのである。

奇跡の数珠繋ぎ

十代で中学の同級生が亡くなった話をしたが、
その後、専門の在学中に小学校からの友人の妹を、
その数年後に高校の後輩を、
それぞれ突然の病気と事故で見送っている。
友人の妹は、わたしの妹の親友でもあった。

また、中高のころに
心の支えになってくれたアーティストが、
交通事故で亡くなった。
バイトをしていたクリーニング屋で
無理を言ってシフトを代わってもらい、
お別れの会に行った。

さまざまな奇跡が一瞬の結晶になり、
それが数珠のように繋がることで、
わたしたちは生き続けることができている、
生かされているのだと考えるようになった。

何かひとつ欠けたら、そこで終わる。
儚いものなのだと。

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