進路を決める
少し話は遡る。
中学校に入ってすぐに話題になった、
同年代による連続事件に衝撃を受けた。
それは犯人が同年代だったことがとにかく大きいと思う。
その後に犯人である少年の両親が出した手記、
あれが初めて買ったハードカバーの本。
どんな環境に育てばあんなことができるのか。
“その人をその人たらしめているものを知りたい”
という欲求は、この時点から顕れていた。
犯罪心理学という分野があることを知った。
心理学を学んで、臨床心理士になる道を考え始めたのが
中学後半から高校一年にかけてのことだった。
臨床心理士は四年制大学を卒業しないと
受験資格がなかったから、
このまま生きているなら
大学に行くつもりで高校に入ったのだ。
しかし、負け戦の後方支援をしていた
一年生が終わるころ。
進路から大学を消した。
成績的には問題なかった。
けれど「なんとなく行くのは違う、嫌だ」と思った。
それは一連の委員会の活動の中で、
心理学という学問の中で、
人をカテゴライズするのも、
されるのも違う、嫌だと強く思ったから。
もっと人はグラデーションのように曖昧で、
タイプ分けできるものではないと感じていた。
そして、心理学以外に大学で学びたい学問がなかった。
心理学を学ぶのは違うと思った以上、
大学に行く意味はないと思っていたからだ。
……ただしこれについては
大人の自分からの注釈として、
哲学に興味はあったけれど
就職に困りそうだし、
お金にならなさそうだから除外した、
という経緯がある。
あと、哲学をやる人は
突き抜けて変わり者のような気がしていたのもある。
自分が普通ではないことは自覚していたけれど、
そこまで突き抜ける気はなかった。
……十分突き抜けているのだが。
ただ、哲学もある程度
体系化されてしまっているとも
感じていたから、
どっちにしろ進まなかったかもな。
「大学に行きません」
二年に進級する時点で
大学に行かないと決めたわたしは、
こう宣言した。
「なんとなくみんな行くから、という理由で大学に行くのは嫌なので行きません」
これは、自主自律を謳っていた
母校の悪いところでもあったのだけれど、
時間が守れないとか、
授業中にうるさいとか、
周囲にうんざりしていたことも
理由として大きい。
お前ら人生舐めとんのか。
あいつらみたいに、
適当に進路を決めて進学?
あれと同じになるなんて絶対嫌だ!
という反抗心である。
余談だがこの「あれ」は具体的なモデルがいる。
ほかの理由としては、
高校受験でメンタルをやられてしまったので、
受験そのものを避けたかった。
ちなみに高校でもわたしは
保健室で授業をサボることがままあった。
……うるさくしてないから良いのだ。
進路相談でも担任には大学進学をすすめられた。
指定校推薦も取れるだろうからと。
それも
「自分の人生は自分で決めます」
と突っぱねた。
そもそも制服をろくに着ていなかった
(スカートは履いていたけれど
上はTシャツやパーカーを着ていた)わたしは、
もしかしたらバッチリメイクをしている
ギャルな子たちよりも尖っていて厄介だったかもしれない。
親にも進学して欲しいと言われたけれど、
絶対に行けとは言わなかった。
「今のわたしが見た時に恥ずかしくない大人になりたい」
そんなことを親には伝えた気がする。
基本的にはやりたいことを
現実として可能な範囲でやらせてくれる両親だった。
視野が狭かった
ただ、大人になって振り返るに、
わたしには自分が置かれた環境の中で、
できる限りの工夫をするという考えがなかった。
視野が狭かったのだ。
楽器を例に出すなら、
大きな音を出せないから
家でエレキギターはできない、
ドラムセットを置く場所がないから
ドラムはできない
(ギターは後々エレアコを買ったものの、
挫折の定番であるFがうまく押さえられず断念している)
金銭面でも同様で、
たとえば中古品を買うとか、
レンタルしてみるとか、
そういう発想がなかった。
この視点を早くから持てていたなら、
もっと人生違うものになっていたかもと考えることがある。
新品を揃えて形から入りたがる
自分自身の性質もあるから一概には言えないけれど、
覚悟というか気持ちの強さ次第のような気がする。
最終的に
専門学校は音楽か服飾の
どちらにするか散々悩んだ結果、
仕事にすることを諦めきれなかった音楽にした。
服飾で候補にしていたのは
パタンナーか和裁士である。手に職。
専門を決める時も、ピアノの先生に
「兄弟多いんだし、幼稚園の先生とか
保育士さんが良いんじゃない?」
と勧められた。
弟妹が多いからといって、
それをそのまま仕事にする気はなく、
また待遇面の理由もあって眼中になかった。
コツコツ投資をするという発想が
この時にあったなら、
選んでいたかもしれないけれど。
投資は怖いイメージがあったし、
欲しいものが与えられなかった分、
「今この時の自由を買うためのお金」が
わたしには必要だったのだ。
高校三年生
高校生活の話に戻る。
委員長としての仕事が終わった後、
三年生の一年間は勉強もほどほどに、
やる気なく過ごした。
進学校だったので
受験勉強をしている周りには
目障りでしかなかったかもしれない。
でもしょうがない、
それ以外のところで燃え尽きてしまったから。
あと、進級する前に
かなり大きなできごとがあって、
心と身体がフワフワしていた。
うちの高校は文化祭で三年生が
クラス演劇をやるのが伝統になっていて、
それを理由にこの高校を選ぶ人もいる、
というのは入学してから知った。
文化祭で燃え尽きたりして、
浪人が多いということも。
自分のクラスはギリギリまで
やるのかどうか決まらなくて。
ホームルームで思わず言ってしまった。
「別にうちのクラスだけやらなくたって良いじゃん」
結果、気持ちがまとまったのか
「うちだけやらないのは……」と
思ったのかはわからないが、
自分のクラスも劇をやることになった。
わたしも役者をやった。
「やらなくてもいいじゃん」
とは言ったけれど、
だからといってやる気がないかと言えば
そうではないのである。
受験しないくせに練習をバイトで抜けたりして、
受験組にはおそらく面白くないやつだっただろう。
観客アンケートでうまいと褒めていただけたりもしたから、
まあ本当に面白くなかった人もいるかもしれない。
ここで調子に乗っていれば、
女優になる人生もあったのかなあ、
とは今でも思っていたりする。
中学の時は目立つことを避けていた。
ただ、本来のわたしは出たがりなのだ。
高校では全校集会で発言したり、
文化祭や予餞会でピアノの弾き語りをしたり。
小学校の時も学級委員をやっていたんだから、
逆に目立たないようにするのが不自然だったんだろう。
小中で何度も無視されてきたわたしは、
ある意味開き直っていたのかもしれない。
「嫌われてもいいから言いたいことをちゃんと言おう」
そんなマインドが高校の頃はあった。
卒業生の言葉
そして、二年間、運営する側に立っていたわたしも、
卒業する番になる。
もう歌も旗もなし崩しになるのは
わかっていたからどうでも良かった。
ただ、クラス代表として
絶対に卒業生の言葉は言いたくて。
通常一人のところ自分のクラスは
わたし含め三人になったけど。
わたしにはどうしても卒業式で、
みんなに聞いて欲しいこと、
みんなの前で宣言したいことがあった。
三年生に進級する直前に、
中学の同級生が事故死した。
家業を手伝っている中での事故だった。
彼女の死を受けて、
自分で自分をあの世に連れていくのはやめようと決めた。
わたしたちは「生かされている」
(まどみちお『こんなに たしかに』より)
わたしはこの身体に生かされている。
心臓は、わたしが死を覚悟した瞬間も、
わたしを生かすために休むことなく働いている。
だからわたしは、心臓の働きに見合うように生きる。
これはわたしが初めてした宣誓で。
今もわたしの心にある大切な指針のひとつでもある。
そしてこの言葉は、とってもほめられた。
普段人を褒めなさそうな国語の先生まで、
「あれは良かった」と褒めていたと
他の先生から卒業後に聞いた。
自分の言葉の切れの良さに自信が持てた。
少しでも確実性をあげて届けるために
文章を構成するスタイルは、
すでにこの頃出来上がっていた。
こうして、わたしの高校生活は終わった。
終わり良ければ、
すべてとは言わないけれど
「かなり良い」のである。
