「わたしを生きる」という契約 -All of Me: autobiography-

第7章:とにかく、なんでもやった

新規部署は新設する支店に入ることになった。
コールセンターの関連部署である。
手配内容やお客様との通話の内容を
クライアントにレポートするためのチーム。

特に立ち上げ当初は障害やエラーで、
朝から晩まで働いた。
三六協定、どうだったのかな……
残業めちゃくちゃしてたけど。

事前に考えられていたフローも、
実際に走らせてみたら全然使えず、
一から考え直すところから始まった。
こんなに大変だなんて聞いてない。

上司は別クライアント部署の人で、
細かいところの判断は
だいたいわたしに回ってきた。

……ほぼ一年ごとに上司が変わった。
誰も同じ感じだったから、
現場運用上の細かい判断はほとんどわたしがやった。
もちろん、何かあった時に責任をとってもらうのは
上司なので確認はしていたけれど。
全て自分が責任を取る心持ちでいた。

システムの改修や仕様変更にも
かなり積極的に口を出し、
クライアントの管理職に対しても
臆せずガンガン行った。
「……役職ないの?」と言われながら。

チームの正社員はわたしひとりで、
このチームの在籍期間中、
チームリーダーでも何でもない
ただの正社員だった。

異動そのものに文句はなかった。
むしろ、立ち上げに抜擢されたことが
嬉しかったし、誇らしかった。
あと、オペレーターとして入社すると、
電話業務からそれ以外に
配置替えになることはほとんどなく、
滅多にないチャンスだったのだ。

……年に数回の新人研修をしながら、
マニュアルを更新し、一から作り替え、質問があれば対応し、意味がわからないものはオペレーションに問い合わせ、クライアントにメールを打ち、システムのエラーが起これば原因にあたりをつけてシステム担当に連絡を取り、システムそのものの改修や仕様変更の打ち合わせもして、新人の採用時期には人事権もないのに面談に立ち会って意見して、どうしようもない場合は運用でカバーして……

うん?
これ、平社員がやることか?

システム障害や繁忙期で案件が滞留した時は
入力スタッフと一緒に黙々と入力をした。
マシンガンのような音を立てながら
入力するのはとても気持ちが良かった。
ハードパンチャーなのは
ピアノをやっていた名残だと思う。

引っ越しと昇進できない日々

支店は本社から電車を乗り継ぎ一時間強。
一時間かからなかった通勤時間が
異動によって二時間を超えるとわかって、
わたしは引っ越すことにした。

家賃補助も引越し手当も出なかった。
通勤できる前提での辞令だから、と。

それでも良かった。
一人暮らしをしたことがなかったし、
支店がある街は栄えていて
都心へのアクセスも良い。
ひたすらに働いて成果を出せば、
昇進してお給料も上がるだろう、と思っていた。

先述の通り、四年間の支店在籍中に
昇進することはなかったが。


本社ではサービス内容の充実に伴って、
どんどんオペレーターを増やしていた。
人を増やすということは、
チームも増やす必要があって、リーダーも増える。

わたしよりも遅く入社した人たちが
どんどん昇進していく。
人事通達を見る度に荒れた。
トイレで何回泣いたかも、
もはや覚えていない。

後々、本社から飛行機で行く場所に
コールセンターを新設して、
そこに異動する人には諸々の補助が出た。
感情の持って行き場がなかった。

関わりのある主に他部署の人たちが、
「お前が上がらないのはおかしい」と
言ってくれたからまだ心を保てた。

リップサービスだったのかもしれないけれど、
言われたことをその通りにしか
受け取れないわたしには、
それで良かったのだと思う。

「まあ、若い頃の苦労は買ってでもしろって言うから」
と周りには話していたけれど、
今なら当時の自分にこう言うだろう。
「わざわざ買う必要はねえ」と。

そう、買う必要はないのだ。
当時は降ってくるトラブルに加えて、
目についたものを抱え込んでいた。
きっと捌ききれない苦労の在庫は
腐っていたに違いない。

支店だから、本社からはこちらが
どれだけ苦労をしているか
(手前らの尻拭いをしているか)が
わからないのだろうと思っていた。

これはしつこいほど本社に働きかけて、
お互いを見学する機会を作ってもらった。
「自分たちが扱っている商品を理解する」
B型の女とは働きたくないとわたしに言い捨てた、
前の会社の先輩の言葉がここで生きた。

電話対応をする側は、
自分たちが作った社内用語だらけの記録が
どう解読されてレポートされていくのかを見る。

レポートを作る側は、
自分たちが変換する前の記録が、
切迫した状況下でどれだけのスピード感をもって
作られているのかを見る。

どちらからも行って良かったと言ってもらえて
ホッとしたのを覚えている。
安くはない交通費と稼働人数のカバーが必要な、
この見学ツアーを実現させてくれた会社には感謝している。

3.11

立ち上げから一年と少し経った頃、
3.11が起きた。

比較的新しいビルの高層階にあったオフィスは、
まるで大きなグラスで
赤ワインの香りを楽しむ時のように
丸く、長く、そして大きく揺れた。

電車が止まって、
スタッフさんたちが帰れなくなった。
会社近くに住んでいたわたしは
ある程度のところまで見届けて
家に帰り、テレビをつけて。

町を飲み込んでいく津波の映像に言葉を失った。
これからどうなってしまうんだろう、と絶望した。

計画停電で仕事を強制的に終わらせなければいけなくなり、
その分のスタッフさんのお給料はどうなるのかと
課長に尋ねたりした。
さすがにこればかりはわたしも無力で、
雇用形態の差はこういうところで大きく影響するのかと思った。

幼馴染の死

どこか現実ではないような
ふわふわとした感覚でいたある夜、
実家の母から電話があった。
幼稚園の頃からの幼なじみが、
自ら人生の幕引きをしたという連絡だった。

目に見える傷を作ることが怖くて、
心をひたすら傷つけてきたわたしとは異なり、
その子は見える形で自分を傷つける子だった。

入院した、退院した。
そんなメールももらっていた。
最悪の事態を覚悟していたこともある。
家を出て、出会いもあって、
そのうちいい報告ができると思う、と
嬉しそうに話してくれたのが、年明け。

翌日、会いに行けると聞いて地元に飛んで帰った。
液状化して砂の跡が残る道路。
傾いた電話ボックス。

震災で気持ちが不安定になったところに、
決定的な出来事があったと聞いた。
確実に遂行できるようにした跡があったと。
見つかるまでに半日以上かかったという。
縫い閉じられた口が、痛々しかった。

たぶん、多くの人が
「どうして」とか
「もっとこうしていたら」とか、
そんなことを考えるのだろうけど。

不思議とそういう気持ちは湧かなかった。
彼女に対して自分ができることは
やりきっていたと当時は思ったし、
今もそれは変わらない。

彼女がおそらく旅立ちを決めたその頃。
わたしは銀座で劇を観ていた。
その劇団はアンケートの設問が
作品の内容に沿っていてユニークなのだけれど

「『もうどうすることもできない!』と感じた過去の自分に声をかけるとしたら?」

この設問に対して、
わたしが開演前に書いていた回答がこれだった。

「生きていればなんとかなる。だから、死のうとだけは絶対に思うな」

これが彼女に届いていたら。
わたしがあの子を思い出して
終演後に連絡を取っていたら。

何かが変わったのかもしれない、
お互いが家庭を持って、
子ども同士を対面させる
未来があったのかもしれない、と。
未だに思うことはある。

「あの子の分まで」

「あの子の分まで幸せになろう」

そう決めた。
決めたというより、
そう自分を縛った。
これのおかげで、新しい足掻きと、今につながる道が開く。

気持ちが落ち着いた夏以降、
パートナーを見つけて
結婚するために動き始めた。

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